――ココロが、痛い。
別にどこか怪我をした訳でもないのに、ボクは痛みを感じていた。
ズキズキと、ボクのココロがまるでナイフのようなもので刺されるような痛み。
どうしてそんな痛みを感じているのか、正直ボクはわからない。わからないから苦しかった。
だけど、1つだけわかっている事がある。それはどんな時にその痛みが襲ってくるのか。
痛みは常に襲ってくる訳ではなかった。特定の時だけに襲ってきていたのだ。
だからボクは、どんな時に痛みが襲ってくるのかだけはわかっていた。
わかっていたから、この痛みの原因がわからなかった。

「あ、お帰りなさいですの。衛ちゃん」

ランニングを終えて家に帰ると、キッチンには白雪ちゃんの姿があった。
昼食の準備をしているのか、忙しそうにコンロや調理台を行ったり来たりしている。
ボクは挨拶を返すと、邪魔にならないように冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを取った。

「今日もランニングですの?」

「うん。毎日の日課だからね」

白雪ちゃんの質問に答えて、ボクはペットボトルに口をつけた。
よく冷えたスポーツドリンクが、火照った身体を冷やしてくれる。
そのまま首にかけてあったタオルを左手に持って、額や首回りの汗を拭く。

「まぁ。毎日ご苦労様ですの」

「そんな事ないよ。ボクは好きでやっているんだし。
 ボクから言わせてもらえば、毎日皆のご飯を作っている白雪ちゃんの方こそ、ご苦労様だよ」

「そんな。姫は皆に美味しいお料理を食べてもらいたいだけですの♪
 それにお料理は大好きですの。苦労や苦痛なんて、これっぽっちも感じていないですのよ♪」

ニッコリと、白雪ちゃんは微笑む。
その笑顔は同性のボクでも、正直可愛いと思ってしまう。
だけど片手に持っているのが包丁じゃなくて、お玉ならもっと絵になっているんだけど。

「あはっ。それじゃ、同じだね」

「そうですの♪」

2人で思わず笑う。
ほら。こうして普通にしていれば痛みなんて感じない。
いつも通りのボクでいられる。皆のイメージである『衛』でいる事ができる。
だけど、それはあの人がいないから。あの人の前だと、ボクは痛みを感じてしまう。
その時だけ、ボクはボクではなくなってしまう。

「あら。おふたりとも楽しそうですね」

当然、後ろから声が聞こえた。
その瞬間、ボクの身体に――ココロにズキリと痛みが走った。
痛い。ボクはその痛みに耐えながら、ゆっくりと振り返ってその人を見た。

「……春歌ちゃん」

ボクの後ろ、正確にはキッチンの入り口に春歌ちゃんの姿があった。
薙刀の練習でもしていたのか、額にはその名残ともいえる汗が滲んでいる。
春歌ちゃんはその汗をタオルで拭きながら、ボク達の会話に参加してくる。
いつも通りの休日。春歌ちゃんもボクと同じように――ただし薙刀で――汗を流している。
マラソンやランニングにしろ薙刀にしろ、毎日の練習の積み重ねで上達していくもの。
それは誰だってわかっている事。だからボクや春歌ちゃんは、毎日欠かさず練習を怠らない。
そしてそうやって身体を動かせば、熱を帯びた身体を冷やす為に汗をかくのは当たり前。
汗はベトついて気持ち悪いイメージがあるけど、冷却材の役割を果たしているのだ。
そう理解しているのに、何故かただ汗を拭いているだけの春歌ちゃんが綺麗に見えてしまう。


――ズキッ


ココロが――痛い。
まるで何かに締め付けられたような痛みが走った。
ボクのココロは、何かに締め付けられている。それはボクにも判らない何か。

「それにしても、今日も一段と暑いですの」

「えぇ。本当ですね」

幸いにも、2人には気づかれなかった。
今の痛みはそれ程強くないから、顔に出なかったおかげだと思う。
できれば、ボクがこんな風に苦しんでいる事を誰にも知られて欲しくない。
知ればきっと、皆心配する。ボクはそれが嫌だ。皆に、あまり迷惑をかけたくない。
だから、ボクはどんなに痛くても、皆の前では皆のイメージである『衛』でいなければならない。
ボクは深呼吸をして、再び会話に参加しようとした。その時だった。

「先程も、雛子ちゃんと公園へ行ってきたのですが、
 あまりの暑さに元気がなかったので、ワタクシの行きつけのお店にご案内たんです」

春歌ちゃんの口から、その言葉が出たのは。
その瞬間、ボクは頭が真っ白になった。何も感じない、何も聞こえない。
ココロを締め付けるような痛みも感じなければ、この夏の暑さも感じない。
煩い程鳴き続けている蝉の鳴き声も、春歌ちゃんと白雪ちゃんの話し声も聞こえない。
まるでその場に、自分の身体がないような錯覚に襲われた。そして――

「春歌ちゃ〜〜ん!
 早くシャワー浴びよ! ヒナ、もう暑くて倒れちゃうよぉ〜〜」

「あ、はい。もう少し待って下さいね」


――ズキッ


「……痛っ」

また痛みが走った。今度はココロだけじゃなくて頭にもだ。
まるで硬いもので殴られたような痛み。それも何度も何度も、断続的に痛んだ。
足元がふらつき何とか踏み止まったけど、思わずまだ痛む頭を利き腕である右手で抑えた。
咄嗟に利き腕を使ってしまった所為で、手に持っていたペットボトルが床に落ちた。
フローリングの床に、スポーツドリンクの水溜りが広がっていく。

「きゃ!? 大変ですの!?」

「衛ちゃん!?」

ボクの異変に気づいた2人が、悲鳴に近い驚きの声を上げた。

「……大丈夫。ちょっと頭が痛いだけだから」

ボクは心配そうな表情の2人に『大丈夫』と、そう言った。
だけどそれは、口にした自分でも説得力がない言葉だとわかっていた。
実際、痛みはまだ残っている。それは小さな痛みだけど、無視はできそうにない。
部屋に戻って――正確にはあの人から離れて時間を置けば、ココロの痛みと一緒に治まるはず。

「本当ですか? 辛いのなら、お部屋で休まれていた方が」

そっと、春歌ちゃんは手を差し伸べた。
細く白い両手で、痛みの所為で足元がふらついている身体を支えてくれた。
それは、ココロの痛みと頭痛に苦しんでいるボクの事を気遣ってくれる優しさ。
春歌ちゃんはそれが当たり前の事と思っているのだろうけど、ボクはその優しさが嬉しかった。
だけどその反面、その優しさが何よりも辛い。ズキリと、少し弱まっていた痛みが、また襲ってきた。

「……うん。そうさせて貰うね。
 ごめんね白雪ちゃん、春歌ちゃん。心配かけて」

だからボクは逃げるように部屋へと戻った。
それは痛みから逃れる為、この痛みの原因である人から離れる為。
そう、ボクがココロに痛みを感じるのは、春歌ちゃんと一緒にいる時なのだ。
そしてこの時、ボクは春歌ちゃんと一緒に過ごしていた雛子ちゃんに嫉妬していた。



どうしてココロが痛いんだろう。
どうして春歌ちゃんの傍にいると、春歌ちゃんと接すると痛むのだろう。
ボクはそれがわからない。わからないから、その痛みの治め方がわからない。
だから唯一治める方法として、痛みの原因である春歌ちゃんから離れる事しかできない。
離れて、痛みが治まるまで待つしかない。だけどそれは、春歌ちゃんの傍にいられないという事。
ボクはそれが寂しくて、そして悲しい。

ボクにとって春歌ちゃんは、姉であり友達のような存在。
姉といっても、年齢的にはほんの数ヶ月の差しかない同い年。
だけど同い年のボク何かと比べると、文武両道の才色兼備。ボクの憧れのお姉さん。
その反面、ランニングと薙刀の違いはあるけど、同じようにスポーツで頑張っている仲間。
だから、年上のさくねぇやちかねぇよりも、気軽に悩み事を打ち明けて相談ができたし、
普段は遠慮したり恥ずかしかったりしてできない、弱音を吐いたり甘えたりする事もできた。
他の11人の姉妹の中で、一番仲がよくて、一番甘える事のできる存在。それが春歌ちゃん。
だからボクは春歌ちゃんが大好き。春歌ちゃんの前でなら、弱い自分を見せる事ができる。
そして甘えられる。もっともっと甘えたかった。そのはずだったのに――

「……痛い」

今のボクは、春歌ちゃんの傍にいるだけでココロが痛くて苦しい。
痛みを治める為には、こうして部屋に引き篭もって春歌ちゃんから離れるしかない。
少し前までは平気だったのに、春歌ちゃんの手が触れただけで身体が熱くなり、ココロが痛む。
更にはちょっとした事で、春歌ちゃんの事を――カラダを意識してしまう自分がいる。
ボクが求めていた『甘えられる優しいお姉ちゃん』とは違う、『何か』を求めようとしている。
そしてその『何か』が渦巻いている所為で、ボクのココロの奥底から黒い感情――嫉妬が溢れ出ている。

ボクは、自分でも気づかない内に醜い人間になってしまった。
ただ春歌ちゃんと遊んでいただけなのに、ボクは雛子ちゃんに嫉妬してしまった。
姉妹の中で一番幼い雛子ちゃんにだ。大人気ない上に、それは姉として失格としか思えない。
だけど頭ではそう自分を情けなく思っても、ボクのココロの中にはまだ嫉妬の念が渦巻いている。



春歌ちゃんを盗られたくない。
ボク以外の誰かと楽しそうにしている姿を見たくない。
太陽のように眩しい笑顔も、温かい優しさも、ボクだけのものにしたい。
ズットボクダケヲ見テ、ボクダケノ優シイオ姉チャンデイテ、モットボクノ事ヲ愛シテ………―――



ボクではない、もうひとりのボク――ボクの『闇』が、ココロの奥底でそう囁いている。

「ぐすっ……痛いよ――春歌ちゃん」








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