気がついた時、春歌ちゃんの顔が、こんなにも近くにあった……。
 今まで、感じたことのないくらい、近くに。


「衛ちゃんは、いつも無茶ばかり……。いくら体が丈夫だからといって……」


 調子のおかしいボクを心配して、熱を測るようにおでことおでこをくっつけて……それ以上の他意はない。
 お説教のような……それでも、いたわりの気持ちから、そっと囁くよう、優しく語り掛けてくれた。


「少し……熱があるようですわね」

「……えぁ…ぅ……あ……」


 春歌ちゃんの囁きの反応するように真っ赤になる。
 その理由も分からずに、戸惑い、うろたえるボクからは、言葉にならない声が出るばかり。
 頭の中まで真っ赤に茹で上がって……そして段々と白く染まりきってしまうような、そんな浮遊感。
 なんでこんな……顔が熱く……?
 ……さっきまで……全然……普通だった、のに……。


「あっ! 衛ちゃん、ドリンクが……」


 突然のことに、ボクの体はボクの意志に関係なく、持っていた缶を滑り落としてしまう。
 汗をかいた春歌ちゃんのためにと持って来てあげたスポーツドリンクは、
 春歌ちゃんの喉を潤す役目を果たすことなく、地面に染み込んでいく。
 ドリンクをこぼしたことに気がついた春歌ちゃんが、ボクの額から顔を離す。
 その距離が離れきってしまう前に、ボクの空いた手は、春歌ちゃんの顔にそっと添えていた。


「え……衛、ちゃん……?」


 その動きはまるで本能のよう。思考が一切介入しないのに、目的のための無駄な動きが一切ない動作だった。

 ……目的?

 目的って……ナニ?

 鳴いていたセミの音が、止んだ。
 それは違う。
 ボクの耳が、それを認識できなくなってしまっただけ。
 音だけじゃなく、視界までもがおかしくなってしまったよう。
 ボクの世界は暗転する。
 暗い闇の中、たったひとつ、春歌ちゃんの姿だけが浮かび上がっていた。

 もっと、もっと春歌ちゃんが欲しい……。
 もっと近くに、感じて居たい……。


―――ズットボクダケヲ見テ、


 黒い、ドロドロしたココロが、とめどなく溢れてゆく。
 深く、暗い、深海のような闇の中、ボクの胸を締め付ける想いが、そっと囁いてくる。


―――ボクダケノ優シイオ姉チャンデイテ、


 いつもは痛む胸が……今はドクンドクンと、激しく脈打つ鼓動が頭に響く。
 同時に……別のものまでもが、シンクロするように、ボクの中脈打っている。
 自分でも信じられないくらい、黒くて、自分勝手な……。

 ダメ…だ……

 ダメだ、考えちゃダメだっ……!

 ダメだダメだダメだダメだダメだっ!!


 そう、心のどこかで叫ぶ声は、


モットボクノ事ヲ愛シテ………―――


 抗うことも叶わずに……無抵抗に、闇に飲み込まれていった……。






「あぐっ……!」


 体を突き飛ばされる衝撃に、世界は光を取り戻し、同時に景色が回る。
 言葉にならない、短い苦痛の声が漏れ、
 それが、受け身も取れないまま地面にしりもちをついた痛みのせいと分かるには、少し時間が掛かった。
 何が起きたのか?
 そう思って目の前を見上げると……そこには物凄い形相で睨みつける春歌ちゃんの姿が……。


「何を考えているんですかッ!?」

「……え? あ……」


 息を荒げ、まるで怯えと怒りの入り混じったような顔と見開いた目で、地べたに座り込むボクを見下ろす。
 温厚で、優しかったいつもからは信じられないくらい……恐い顔。
 まるで吐き捨てる様に、感情もろともボクにぶつけてくる。
 それは当然の事……。
 ボクは、至近距離にある春歌ちゃんの顔に……自分の顔を近づけて……そして……

 自分自身の、信じられない欲求を満たそうとしていた……。


「あの……その……ご、ゴメンっ! その……」


 ボクは……なんてことを考えていたんだろう。
 寸での所で、春歌ちゃんはボクの体を思い切り突き飛ばし、ことが起こるのを逃れたけれど、
 真面目で、清楚な春歌からすれば、ボクが取ろうとした行動に、きっと恐怖すら感じたんだと思う……。
 このままじゃキラわれる。このままじゃオカシクなったと思われる。
 冗談だよ。
 たった一言。たった一言そういえば、それだけで、春歌ちゃんとの関係が保てる。
 春歌ちゃんはヤサシイんだから。


「あ……あの……ね……。……今の……その………違っ………」


 なのに……ボクの口は、動いてはくれない。
 代わりに、ワケも分からない震えばかりが、ただただボクの身体を伝っていった。
 早く……早く誤解を解かなきゃ……。
 焦る心が先走るだけで、伝えたい言葉を形作ることはできなかった。


「……っ」

「あ! 春歌、ちゃん……」


 もたもたしている内に、春歌ちゃんは走り去ってしまった。
 もう、手遅れ……ボクは春歌ちゃんの誤解を解くこともできないまま、
 醜い印象を春歌ちゃんに残して、ひとりその場に座り込んでいた。

 誤解……?

 手遅れ……?


「……そんなワケ……ないよ……」


 涙が溢れてきた。
 だってそれは……誤解なんかじゃなく、まさにその通りのことなんだから……。
 だってそれは……最初から終わっていたんだから……。
 今気づいた。ボク、春歌ちゃんに……「恋」していたんだ。

 綺麗で、優しくて、とても女性らしくて、スポーツだって何でもできて、憧れて……。
 ボクにはないもの、ボクが欲しいものを全部持っている春歌ちゃん。
 想う度に、近づくたびに胸が痛くなって……ただ一緒に遊んだだけの雛子ちゃんにまで、醜く嫉妬した。
 今までのボクは……テレビや雑誌とかで言っていたまま、聞いたままじゃないか。
 春歌ちゃんとあんなこと望むだなんて、それこそ答えのようなものじゃないか!
 ここまで答えが出ていたのに……分からなかった。


「分かるわけ……ないじゃないかっ……!」


 「お姉さん」だから……それは有り得ないと、思い込んでいた。
 人を好きになるのに理由は要らないのなら……その相手を好きになる時は、好きになってしまう……。
 それが、どんなに「普通」から、外れていても……。
 お姉さんで……ただ、大好きなだけなら良かった……。
 なのに……ボクは知らず知らずの内にそれ以上を求めてしまったんだ……。


「好きだ……。……好きだよ……。……好き、なんだよぉ……」


 か細く、涙と共に零れていく、切ない想い……。
 なんて、皮肉なんだろう……。
 それが恋だって気づいたのは、振られたあとだなんて……。
 春歌ちゃんはとても綺麗で、潔白で……だから、ボクは憧れて……だから、ボクじゃダメなんだ……。
 恋した理由が、愛してもらえない理由だなんて……悲しいよね。

 ぐしゃぐしゃに歪んだ表情でただ涙を垂れ流すボクに、ミーンミーンと鳴くセミの声が、いやに頭の中に響いた……。






 家に帰ると、おいしそうな夕ごはんの匂いが、玄関にまで立ち込めていた。
 いつもなら食欲のそそられる白雪ちゃんのごはんの香り。
 だけど、暗い気持ちと落ち込んだ心がお腹の中に渦巻き満たしている今のボクに、そんな感情は一切湧かない。
 夕食までもうすぐだからと伝えてくれた花穂ちゃんに、気分が悪いからいらないと答えてすぐさま部屋に閉じこもった。

 あの後、ボクは気持ちを紛らわすように走った。
 目的も、距離も、終わりも決めずに、ただひたすらに、なにかを振り払うかのように走った。
 走っていれば……気が楽になると思った。
 ただ走るだけが、あんなに楽しかったのに……今日はどんなに走っても、気分が晴れることはなかった。

 帰ってきたボクの様子が更に暗くなっていることに、
 心配してくれた咲耶ちゃん、花穂ちゃん、他のみんなに更に心配を重ねてしまった……。
 でもね、心配してくれたみんな、多分ボクはもう心配は掛けないと思うよ。
 だって……―――


「衛ちゃん……居ますか?」


 ノックの後、ドア越しに語りかけてくる声。
 それは、ボクの胸の痛む原因となった人物のもの。
 どうしてだろう……?
 いつも暗い部屋の中で、あんなにも、あの人が訪ねてくれれば……望んでいたのに……。
 今はとても…………辛い……。
 ボクは返事を返さなかった。
 それでも、春歌ちゃんはドア越しのまま「そのままで良いですから聞いてください」なんて口にして、話すのを続けた。


「先程のこと……ワタクシは、気にしていませんから……」


 きっと、さっきことは誰にも言っていないと思う。
 春歌ちゃんは優しいから……。


「衛ちゃんは、疲れていただけなんです。熱もありましたし……。だから……」


 でも分かる。今の春歌ちゃんは、ボクから距離を取っているってことを……。
 多分無意識なんだと思う。
 それが、どれだけボクが春歌ちゃんを見てきたのか、痛いほどに理解して……また胸が痛んだ。
 距離を取って……それでも優しい春歌ちゃんは、きちんとボクに向き合ってくれて、そして正しにやってきてくれた。
 本当に……妹が好きになるくらい、優しいお姉さんだ……。


「衛ちゃんは……きっと、ワタクシに対して、憧れが過ぎちゃっただけです……」

「そうだね……うん」


 春歌ちゃんの説得に、ボクは静かに頷いた。
 納得しているかしていないか、その答えを自分の中から引き出す前に、「うん」と。
 だって、これ以上この距離を広げたくなかったから。
 広げて……取り返しがつかなくなって、大好きなあの人から見放されたくなかったから……。
 ボクと春歌ちゃんの間に生まれた溝。
 その距離はきっと、時間と共に埋まっていくと思う。
 だけど、元々の距離以上に近づくことはないと、それだけは確信していた。

 心配してくれたみんな、ボクはもう心配は掛けないと思うよ。
 もう、痛みの原因は、別の痛みに変わってしまったから。
 だからもう……あの胸の痛みで死ねるだなんて思うことはないよ。

 その後も、春歌ちゃんはボクを説得してくれた。
 "春歌ちゃんの思う"正し方で。
 それが春歌ちゃんのできる、精一杯の肯定。
 頭で、常識で、無理矢理理解しようとしている、そんな言葉に、それでもボクは頷き続けた。

 でもね、春歌ちゃん……。
 一時の気の迷いとか、恋に恋していたとか、ただの勘違いだとか……春歌ちゃんはそう言うかもしれない。
 ボクには、それが合っているのか間違っているのか判断できないけれど……。
 そんな勘違いでも……今のボクには、「ホンモノの恋」には違いなかったから……。
 だから、ドア越しに話しかける春歌ちゃんに相槌を打ちながら、心の中でひとりこう言ったんだ……。



 さようなら、ボクの……初恋。








 


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